今年最初の大仕事は雪かきと、ぼんまる主演紙芝居。
1月9日、神奈川県川崎市、夢パーク。
そこでは子ども達の元気が爆発していた。
寒い季節、雪解けで地面グチョグチャな上を裸足で駆け回る子ども達。
見ているだけで風邪ひきそう。
子ども時代、たくさんの子ども達と一緒に父に連れて行かれた山の中。
“だめ! 早く! だから言ったでしょ!”
子どもの元気を消沈させる言葉。 だけど、免疫力強い子どもにはそのうちすぐに効果なくなる意味のない言葉。
そんなつまらない言葉吐く大人ぶりっこな大人がいない山に父に連れて行かれ、子ども時代を遊んだ。
懐かしい。
そして、ここ夢パーク。
僕も、すね毛が生え揃ったからだろか。 大きな紙でも足りないと言わんばかりに顔、手、足が真っ黒に書き初めする子ども達。
冷たいグチャグチョの上を裸足で駆け回り、その上、ホースで水撒く子ども力に、思わず言ってしまいたくなる効果のない言葉。
二、三年前から脅されるように聞く噂の流行り病。
病気に負けぬ、元の気と書く元気で迎え打たなきゃなんないのに、ブレーキなんかかけちゃいけない。
夢パークにやって来る大人もきっとそれを良しとして来ている。
元気すぎる元気達を目の前に、少し大人ぶりっこしてしまいそうになる自分。 もう一度子ども心見直そう。
それにドロドロになってるのは僕の足でも手でも顔でもない。
公園内では大きな炎も燃えている。 何よりあったかい暖房が用意されてある。
僕はこの暖房が大好きだ。
ぼんまる紙芝居が乗り込む場所はそんな公園。
ここに乗り込むまでが大変だった。
10数年前。
東京での紙芝居オーディションに120人くらい集まった。 その中に1人、お腹の大きな女性がいたことを覚えている。
B4サイズの木の枠におさまらない物語感じさせ、師匠ヤッサンと漫画家牧野圭一先生の隣に座った僕の心に残っていた。
その人が数年前に京都国際マンガミュージアムにお腹スッキリさせてやって来た。 それからハシゴして、ヤッサン一座が紙芝居口演している清水寺に。
そこで、ぼんまるを見て感動したと言う。
それから、その女性は、いつかぼんまるに紙芝居を依頼したいと。
僕でなく、ぼんまるを。
まったくもってつまらなく、おもんない話だ。
だけど、ぼんまるが惹きつける魅力、それなら僕も知っている。
その話が去年、グッと前に進んだ。
だが、噂の流行り病。 何度も流れ、年を跨ぎ、1月9日。
舞台にぼんまるを上げるまでが大変だった。
去年の9月、普段から腹が立つぼんまるに、超絶激烈腹が立ってしまい、1ヶ月連絡を取らずにいた。
久しぶりに参加させたzoom会議の終わりに、私事なのですがと、口を開くぼんまる。
「2週間ほど前、実家の父が亡くなりまして」
実家の父というのはあれだぞ、嫁に行った女の人が使う言葉で、オマエには親父は1人なわけで、そうか、亡くなったのか。
長くはないと聞いていた。
けど、9年間ずっと一緒だったぼんまるを離した1ヶ月でそんなことになることないじゃないか。
聞けば、葬式にも行ってないと言う。 そんなことに驚きはしない。
ぼんまるとの付き合いの中で想像もし得ないことだが、驚くことではなかった。
僕にはわからない、誰にもわからない、悲しいだけでおさまらぬ想いがきっとある。 口なんか挟めない。
ぼんまるのお父さん。 きっと、初めてのお父さん業。 誰でも皆不慣れで、上手くやれないお父さんだってたくさんいる。
ぼんまるのお父さんには会った事ないが、きっとその中でもヘッタクソお父さんだったんだろう。
だけど、いつか実家に帰ってた時に電話の向こうに聞いた唸るようなお父さんの声。
「やりたいことをやれ〜・・」
不器用ながらも息子を可愛く思う気持ち伝わった。
ちっとも全然可愛くないぼんまるなんだけど。
ぼんまるをぼんまるのまんま、生きてほしい。
僕だって僕のまんま、媚びずに生きたい。
だけど、ぼんまるも僕も、きっと誰しも隠の部分持っていて、ぼんまるはそこに陥りがちで、そこに浸るとなかなか浮かんでこない。
めんどくさい。 足も臭い。
僕がぼんまると付き合うのはただ一点。
“紙芝居を学びたい”。
師匠ヤッサンは僕らを残してとっとと逝ってしまったが、力及ばずとも、師匠に代わり想いを継ぎたい。 ぼんまるも僕で辛抱してくれている。
その一点。 人前に立ち、人と繋がろうとする、笑顔引き出される時間をぼんまるの人生にもっと。
その日、ぼんまるを引っ張る女性に電話した。
「私は何も応援しようとしてるんじゃありません。 ぼんまるさんの紙芝居をたくさんの人に見てもらいたいのです」
なんて漢気あるカッコいい人なんだろう。
この人任せだけじゃダメだと、川崎市は遠いけど、1日5分筆を持ち、どうか叶えと想いを飛ばした。
こんなのは独りよがり。
ぼんまるが引き寄せるのはいつも、力強く変な人ばかり。
その女性の向こうにも、あったかい人はいて、そしてその舞台も子ども心と夢に満ち溢れていた。
蜘蛛の糸。
たった一つの良い行いで、蜘蛛の糸が降りてくるほどあの世はそんなに甘くない。
“だめ、はやく、だから言ったでしょ”
並みの日を通れず、“普通”に混ぜてもらえぬぼんまるや僕の歩く道は時に息苦しく、いつも通せんぼ。
前後左右、東西南北道はない。
下に降りる選択はあまりたぶん絶対良くない。
それならば上。 と見上げる空から蜘蛛の糸など降って来ない。
この世もあの世もきっと自分次第、自由をこの手でつかむのだ。
先日、スパイダーマンを観に行った。
塩味も、キャラメル味も美味しいポップコーン食べながら観る映画は楽しい。
けど何が楽しいかって、物語には一人の主人公がいて、望まなくても冒険に駆り出され物語を生きている。
ジャスコで買い揃えた流行りの服に身を染めて、流行りの曲に身を揺らす人生はそれなりにイケていて、カッチョよく、上手いこと誤魔化せるだろけど、心はちっとも踊らない。
そんなどこにでもある物語になど、誰が手にするものか。 つまんない。
ぼんまる。 僕の人生の濃い時間の10年を共に生きた男の物語。 僕はこの際、この先も見届けたい。
ぼんまるの放つ光にいつか僕も照らされたい。
何者にもなれなかった僕が今、紙芝居で生かされている。
まだまだ道の途中だが、教えることで学ぶことがある。
どこにも該当せぬ、共に育つ共育紙芝居でありたい。
こいつを一人前にすることでたぶんきっと絶対、僕も一人前になれる。
同時に一人前になってしまうのが、なんともシャクで腹立つが、奴が逃げぬ限り僕も向き合おう。
ぼんまるの紙芝居は蝶ネクタイ曲がりっぱなしで半チャックでまだまだだったが、あの日、僕はとても誇らしかった。
帽子取らなくても眩しかった。
ありがとうございます。 もっちぃ。 川崎市高津区役所の皆さん。 夢パーク。 そして、あの場にいた子ども達。
ぼんまるの活躍や如何に?
この続きはこれからのお楽しみ。