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故郷

2019.09.20

僕の本籍は山形。
父の生まれ故郷。

山形で生まれた父は6歳まで山形にいて、その後、東京に移り住んだと聞く。 駆け落ち結婚で母と大阪に移り住み、そして僕たち兄弟4人を生んだ。早くに亡くなった母の母、おばあちゃん以外の母の父おじいちゃん。父の父の、おじいちゃんとおばあちゃんを最終的には我が家で看取ることに。父と母の駆け落ち物語はひとつハッピーエンドに。父が自分のルーツは山形にあると言って残した本籍地山形。たまに山形から呼び寄せる戸籍謄本は面倒だけど、命のルーツしっかりと残しておきたい。

先日、山形に紙芝居に行った。
忘れもしない2年前、いや3年前だったか、もう少し前だったか、春か夏か秋か冬のどれかの季節、招かれ行った山形本庄の図書館での口演、最前列でお孫さんと見てくれた人からのご縁いただき山形に。知りもしないのに、住んでもいないのに、僕の脳がここが僕の故郷と意識するからか、踊る心、山形は、山がでかく空がでかく感じる。窓開けて走る車、いくら走ってもついて来る蛙の合唱聴こえる季節ではなかったけど、大きな風車、山の向こうに見える海、食い切れない大盛りラーメン。どれも変わらず山形だった。

八月の終わり頃聞かされた、父、師匠ヤッサンのお弟子さん、山形県酒田のラーメン屋さん、ラーヤッサンが膵臓癌で入院しとるとの話。どうか、9月の中頃の山形遠征まで待ってくれと、病気を聞かされたその日からハガキを描いた。

日本海総合病院 ラーヤッサン様。
僕はヘビーストーカー。 ハガキを毎日描いた。
届いてるだろうか。 出発2日前に病院に電話。

「確かにそのようなハガキが20数枚届いたが、届け先が不明で郵便局に送り返しました」

そりゃそうだ。
郵便局に電話する。

「確かにそのようなハガキが20数枚届いたが、差出人が不明でこちらで、処分させていただきます」

そりゃそうだけど。
まいった。

毎日描いた僕のハガキには癌の治療効果はなく、独りよがりがもしれないが、師匠ヤッサンの隣、ただボーっとしていた僕を覚えていても覚えてなんかいてもらえていない。当日行っても誰ですか?になってしまう。山形に残した師匠のお弟子さんがいくらかいるが、どうすることもできない。たとえ今はまだ62円のハガキでも、毎日届けられるハガキに、ラーヤッサンにも家族にも、病気や死、悲しみを多く見た病院にも皆等しく尊い命を改めて大事に思ってもらいたかった。
師匠と僕と血の繋がりある親戚が山形の何処にいるかもわからない。ふと思い出す。 数年前、京都の大学生の依頼で行った紙芝居。 その学生は卒業し山形に移り住んだと聞く。

そして、ラーヤッサンや、山形のお弟子さん達と交流があると聞く。 少し出来すぎた話。 これこれこうで、話を聞いてもらう。

「わかりました。任せてください。」

数年前会ったこの子は確か女の子だったはずで声も間違いなく女子なのだが、男らしくて頼もしい。山形に付き、真っ直ぐに病院に。ラーヤッサンの髪の毛は一時なくなったようだったが、また生え始めていてた。ただ、ふくよかなお肉と生気は消えていた。ズーズー弁と、しゃがれ声。僕はいっつもこの人の言葉が聞き取れなかった。出される大盛りラーメンと頼んでもいないサイドメニューが多すぎて食い切れなかった。この人がくれる愛を僕は受け止めきれなかった。

目の前に覇気のないラーヤッサン。10分もいなかった病室。 大きく見開く目でこっちを見てはいるが、相槌もろくに打てず。その姿、8年前の父を思い出す。

引き出しを指差す。
開けてみる。

そこには僕が送ったハガキが届いていた。
「任せてください」 その言葉は本物だった。
それなら、もう僕の言葉は届いている。

いっぺんに話したらながいだろけど、1日3分で飲み込めるハガキ。 いっぺんに届けることになったけど。病室長くいてもきっと絶対しんどいだろう。だけど、僕はこの人にもう一度会えるのだろうか。病室を出る前、なんて声かけたらいいんだろう。 「師匠によろしく」 なんて言えない。白々しい言葉で僕は「また来ます」と病室を出た。病室にいても何もできない。何も言えない。仕方ない。僕はラーヤッサンの病気を知らされた日から、受け入れならなければならい結末を知っていた。 この運命には逆らえない。この命と命の終わりを自分の命にどう繋ぐか。そこだ。そこだ。

連日の口演を終える。数千回してきた紙芝居。 なにも気張ることはない。が、父の故郷にいる。ぬぐえない。子ども達も惜しみなく、東北弁でぶつけて来る。 誤魔化せない。 僕は今、山形にいるんだ。熱くなる。山形の山々に囲まれ走る道中聴く音楽が全ていつもよりドラマチックで、紙芝居の口演、向き合う子ども心が眩しくて。少し張り切り過ぎ、最終口演には、喉を枯らす。声を枯らし、肥え枯れ。「まだまだだね。」 師匠が大きな山の向こうで鼻で笑っている。

口演後、招かれるお食事会。他に何もできぬ、何者にもなれぬ僕がこうやって迎えられる。ありがたいものを授かった。はじめましての人ばかりなのに、親戚以上にあたたかい。 そして時を超え、僕に投げかけて来る言葉は惜しみなく心を射抜く。紙芝居に命懸け生きる僕をひとりの人間として向き合ってくれる。

山形最終日。
本籍地を訪れる。
成人してから連れらてた父の生まれ故郷。
住所はわかるが何もわからない。
そこには何もない。

師匠が亡くなった歳、山形で追悼口演をと迎えてくれたお弟子さんがいた。僕が弟子入りした年、10年前。その年に、何故かアパレル会社の社長さんが紙芝居屋さんを雇用すると。指南役に師匠ヤッサンが。大阪で40人。 かける2回で80人。東京で140人。 かける2回で280人。その中に一人、山形の人がいた。オーディションの最中、たいして話せもしない父がその人と東北弁で話す。僕はそれを覚えている。その時のお弟子さんだ。師匠はその人との縁を残した。その縁が僕の手を引いてくれた。 そして、また僕に教えてくれた父のルーツ。 キーワード。それを頼りに車を走らせたが、会えずじまい。 置き手紙は残せた。

今では聞けなくなった父の故郷。
親戚は何処に?
それを探す旅でもあった。
そして、父が紙芝居で残した人との繋がり繫ぎ止める旅でもあった。だけど、ラーヤッサンに届いたハガキ。山形に招いてくれた人。 笑顔で包んでくれた人たち、導き助けてくれた人は親戚なんかではなかった。親戚、父の残した縁。どれも大切だが、ここ山形を残したいなら僕が繋いで行かねばならないと気づいた。

帰り道。
山形の局番から電話が入る。
出れば郵便局。
「たくさんの手紙ありがとうございます。そして、我々郵便局にもハガキありがとうございます。 良い仕事をしたと我々、皆で喜んでます」
お詫びにと、数枚の郵便局へのハガキも届いた様子。

帰路は長く、少し休みたいと思った頃、知らされる、ラーヤッサンの死。きっと恋しくなるのは体温。普段触れることもないのに。それ以外はちゃんと変わらず生きている。どう活かし生かすか。人一人の命のバトン受け取るなんて烏滸がましい事言えないけど、お子さん、ラーメン屋さんのお弟子さんはじめ、命繋ぐランナーはたくさんいるけど、ラーヤッサンの命のバトンほんの一部でも受け止め、握りしめ、その先を走りたいと思う。

死を知り、生を思い知らされる。
これからもたくさん見る命が終わる最後のドラマ。父が亡くなってから僕は死に固執する。そんなにも重く受け止めなくてもと人は言うが、そんな加減、他の誰かに決めさせたくない。ほっといてほしい。知ったかぶりであてにもならない、死後の話なんて信じないけど、今頃、父ヤッサンとラーヤッサンが何処かで、ズーズー弁で語り笑ってるのを僕は都合良く受け止め信じている。日々の感動が、日々の感動と忙しさで埋もれぬよう噛み締めて、命に変えて物語を生きていきたい。

家に着き開スマホ。
メールあり。
置き手紙残して来た親戚から。
電子メールも時にはあったかい。

だんまるのFacebookより