日々の感動が、日々の忙しさと新しい感動に埋もれぬようにもうひとつここに書き留めておこう。
福島県。川内村。
国語の教科書で馴染んだ、カエルの詩人、草野心平さんと、川内村の物語。 それを紙芝居に。
そんな依頼を承る。
小学校。 国語と算数と理科と社会と、お昼ご飯食べた後は妙に眠く、そして教科書の空白に絵を描くのが忙しい僕には先生の声はなかなか届かなく。
だけど、ぼんやりうっすら覚えてる。
草野心平さんの詩。
大人になって読み返す。
カエルの声が「ギュワロギャワロ」と鳴いていて、「るるるるるるる」で「QQQQQQQ・・・」
さっぱり、わけがわからない。
草野心平さんの少年時代は見るもの全てガギガキザラザラしていて、鉛筆も教科書も机も人もかじる少年だったそう。
少年時代だけでなく、大人になってもガギガキザラザラ。
だけど、詩に出会い。これだと道を見つけ、そしてモリアオ蛙と川内村の和尚さんに招かれ導かれ辿り着いた福島県川内村。
そして、草野心平さんをそのまんまありのまんま受け入れた大きな器を持った川内村。 そして川内村の人々。
いつまでも尖っていてはいけない。
丸くなれ。 人はそう言うけど、自分の芯まで削って丸くなったら自分じゃない。
いやでもあちこちぶつけて削られてしまう人生。
丸と丸、横に並べたら、間にできてしまう歪な隙間。
それならいっそ、凸凹のまんま、ガギガキザラザラのまんま生きて、凸凹にピッタリはまるピースに、両隣、上と下の人達と手合わせて、肩寄せあって生きて行きたい。
誰かに合わせるばかりでなく、ありのまんまを貫いた草野心平さんの詩だからきっと、わけわかりっこない、言葉にしようのない感動が胸に響くのか。
わけわかってしまわれる人間でなくていいのかも。
流行りの服に身を染めて、耳触りのいい流行り言葉吐く、そんな誰も一緒の脇役人生の物語なんて手に取らない。 届かない。
草野心平さんと川内村の物語。
史実をそのまんま描くでなく、僕の心に映ったまんまに描いた。
そして毎年行われる、だけど、ここ数年噂の流行り病でお休みだった天山祭りで紙芝居。
心のまんまに描いたものの、これでいいのか?
頭を使うと不安がやって来る。
この日は雨降り。
景観のいい、天山文庫。 草野心平さんのお庭でしたかったのに、この日は体育館。
そして、また距離を空けられる紙芝居。
見る前に「しょせん紙芝居」と帰られてしまう。 これからも一緒に生きていきたい紙芝居に、守りたい紙芝居という名に時々足を引っ張られる。
やりにくさは時にやりやすさで、皆が勝手に思い描く紙芝居を大きく裏切ってやる。
子どもも、そしていつまでも残る子ども心にぶつける。 帰ってくる笑顔。
「これでいいのだ」
あの、わけのわからなかった漫画の主人公の言葉が今になってよくわかる。
きっと誰にも、息苦しく感じる人生も、時に合わせることもしつつ、折れちゃいけない殺しちゃいけない自分がいる。
皆一緒でなくていい。 皆それぞれ、色々あるからキラキラギラギラ輝いて美しい。
草野心平さんと川内村の物語。 僕はそう受け止めている。 そして、また川内村に招かれるなら、紙芝居で子ども心に伝えたい。
凸凹な僕を良しとして、迎えてくれた川内村。
福島県の山奥。 モリアオ蛙がいる川内村は、人を育てる魅力がある。
また自転車にETCカードつけて行きたい。